森城址
森城は鎌倉時代から戦国末期まで、約400年間北の守りを果す「後詰めの城」として仁科氏がこの地を支配するための重要な役割を果してきました。
木崎湖に突き出た半島状の丘を利用して造られ、北と東は湖水に臨み、西と南は湖水の水を入れた堀に囲まれ、有事の際は湖尻の「せんば」をせき止めて水位を高め西側に水を入れるいわゆる水城の仕組になっていました。
本城跡には仁科盛遠の「もとどり塚」、童話作家巌谷一波や加藤犀水・柿本環翠の句碑があり、湖水から引き揚げられた丸木舟等が保存されています。
巌谷一波の歌碑加藤犀水の歌碑柿本環翠の歌碑えぐり舟 この舟は、木崎湖中から発見されたもので、一本の栗材の丸太を丸ごとくりぬいて造られていることから「えぐり舟」と言われ、地元では通称「とっこ」と呼んでいました。原始時代から水上の運搬用具として用いられた古代船のなごりを残しており、木材を組み合わせた構造船に比べて丈夫でバランスがよく、記録によれば明治時代まで使用されていました。
仁科城跡の由来 この森城は、仁科氏の拠城であり木崎湖の西岸に突出する半島状の丘を利用し、湖水から流出する農具川をせき止めて浮島とした一種の水城で、現在のB&G財団体育館の北に至る非常に広大な面積をもつ城である。戦国時代武田信玄が当城主仁科盛政を甲州に呼んで切腹させ、信玄の五男晴清を仁科五郎盛信と名乗らせて当城主として送込み、上杉謙信に対抗するため城の大修築をほどこした、戦国時代にはめずらしい程の大規模の城であり、遠く日本海糸魚川近くまでを支配した拠点である。仁科氏は九百年ともいわれる長い間当地を支配した豪族であり、平安朝の古くから京都の朝廷とのつながりをもち、その力を背景として栄え又塩の道と言われる日本海との移送税の収入が財力となって、小豪族ながら他の豪族にみられない中央文化を移入し仁科氏の古代文化を大町市や周辺に数多く残している。
国宝一、重要文化財十一、古い由緒を物語天然記念物一、県天然記念物二、県宝三、県史跡一、県無形文化財一、その他数多い文化遺産は、仁科氏のかつての繁栄をものがたるものであります。
阿部神社 仁科氏が祖先である阿部氏を祀ったところである。
下畑遺跡 縄文前期から弥生時代にいたる遺物を出土している。釣手土器の出土は珍品で郡内唯一の遺物。
かまたきば 城の炊事施設があった。
せんば ここで農具川をせき止め水位の上昇をはかり堀への水を導入した。
機織り淵 森城落城のとき、城主の妻が機とともに投身したと伝えられる。雨降る夜、淵の底から機を織る音が聞こえるという。
千国街道 松本から糸魚川にいたる。昔は大町地方へ塩など海産物の入ってくる道でもあった。
鬼穴古墳 六世紀から七世紀の古墳。長さ三・五メートルほどの半地下式の石室をもつ。昭和五十六年に復元し、直刀が出土している。