大原町仁科庚申堂
庚申信仰は、仏教に道教が習合したもので、この地方では、江戸時代の中期から「庚申講」として広く信仰されるようになった。
この仁科庚申堂は、大町新堰の通水により大原町の開発が進んだ文化年間(1804年−1818年)に、大町村大原五人組の一人伊藤又蔵が、現大町市高見町の油屋染五郎から本尊の青面金剛像を譲り受け、「仁科庚申尊」として祀ったのが始まりとされる。境内には、「大姥大神」と刻印した文政二年(1819年)の石碑が現存しており、山姥信仰と一体として、この年に創建されたものと考えられる。大原地域は、遠く篭川の山中から導水して来た、大町新堰の通水により大きく発展した。
毎年、年頭の庚申の日には、境内に五色の法幡が立てられ、七年に一度の御開帳には、市内をはじめ広範な地域から参詣者がたえなかった。特に農業や養蚕、諸商売にご利益があるとされ、明治四五年、昭和三年には句額が奉納され、大正一四年(1925年)には玉垣が新設されており、飲食業や花柳界からも信仰を集め、堂内には大町の芸子が連名で奉納した大提灯が残されている。
このほか境内には、大町地震の調査にあたっていた大森房吉博士が大正七年(1918年)に記念植樹した際の記念碑や大正一〇年に大澤寺を祈願寺としていた公爵二条基弘が植樹した際の記念碑、二十三夜塔、大岩不動尊建立碑などが残されており、大原町を中心としたこの地域の人々が、仁科庚申堂に寄せてきた厚い信仰を今に伝えている。