館之内仁科氏居館跡 この付近には、大町市を中心に平安時代の終わり(十二世紀)から戦国時代まで安曇地域を治めてきた仁科氏の初期の屋敷(舘)がありました。こうした地方豪族(武士)が政治の中心とした屋敷を居館といいます。「居館」があったことから、「館のうちがわ」という意味で「館之内」という集落の名前がつけられました。
居館全体の規模は、北側が東西一二六m・南側が約一九〇m、東側が南北約二一六m・西側が約二六〇mの南北に平行な台形をしており、居館の内側は四つの郭(平坦な敷地の区画)に分けられていました。
仁科氏は、室町時代の初め(一四世紀)ごろには、現大町市街地の天正寺のある位置に居館を移しましたが、南東の山の上にあった木船城との関係から戦国時代(一六世紀)まで舘は使用されていたと考えられます。
館之内集落には、今も「堀跡」、「クネ内」、「高見」、「古町」、「縄手」など居館に関係した地名が残り、往時をしのばせます。