西山村の郷倉の歴史 郷倉は江戸時代、農村における年貢米の収納保管の倉であったが、江戸時代の後期になると、凶作時に備えて籾を貯蔵して置き、困った人に貸し出す「備荒倉」としての役割が大きくなり、平成の初めまで残存していたのは、西山村の郷倉であった。
西山村の郷倉は、切妻平入りの平家で、切石をすき間なく並べて、その上に土台を置き三尺ごとに柱を立てている。梁間六間、桁行四間の前面に一間幅の廂の部分をつけ、廂の下の東西の端にそれぞれ中二階を持つ一坪の部分を設けている。ここは籾の収納の折り村役人や藩役人の見分所であったと伝えられている。
入り口は二ヶ所で六尺一枚の引き戸。屋根は当初大板葺で、壁は柱を表した粗壁。内部は中央の梁を支える大黒柱が一本立つだけのがらんどうであった。米俵は、土間に丸太を敷いて、積んで置いたようである。大黒柱に、「天保六年乙末六月吉日」(西暦一八三四年)の墨書があったことから、西山村の郷倉が造られた年代とされている。
西山村の郷倉は、昭和十八年まで籾の貯蔵貸し出しが」存続され、一戸一俵ずつで、秋に一割の利息をつけて返すことになっていた。
昭和五十五年六月当時の郷倉